原生自然とアメリカ人の精神(パート2)

パート2は皆さんお馴染みのヘンリー・ソロー からジョン・ミューアまでいきましょう。

この辺りは環境教育の文脈である程度理解していたので、それらを裏付けたり、また「へぇ」情報があったり、楽しく読むことができました。エピソードからその人となりも伝わり、単に歴史上の人物から、なんか愛着がわく存在となりました。

ちょっと長めですが、気合を入れてどうぞ。


目次

第5章 哲学者ヘンリー・デーヴィッド・ソロー
第6章 原生自然を保存せよ
第7章 保存された原生自然
第8章 原生自然の伝道師ジョン・ミューア
第9章 原生自然への熱狂
第10章 ヘッチヘッジ渓谷


第5章 哲学者ヘンリー・デーヴィッド・ソロー

「ウォーデン 森の生活」の著者で知られるソロー についての章です。私の中では、森の中でしばらく生活して、世界で初めて原生自然のゾーニングによる「保存」の概念を提唱した人物であり、これが後の国立公園誕生につながったという理解が強いのですが、むしろ彼の原生自然に対する思想が、後のアメリカ人にとってのウィルダネス観に大きな影響を与えたようでした。

彼の原生自然に対する考えを特徴する思想として「超越主義(Transcendentalism)」があります。物質的現実や客観的事実よりも、個人の感覚や、その説明として神の存在、自然の神秘性、さらには人の無限の可能性を認める思想で、アメリカ人の後のウィルダネス観に大きな影響を与えました。

アメリカの研究者と、自然の霊性(スピリチュアリティ)の研究をした時に、質問項目の中に超越性(Transecendent)に関する質問項目があり、日本語に訳すのに、頭を捻った記憶があります。

とは言え、これは真新しい思想ではなく、自然の中に神をおく精神性は、東アジアの人間は古来持っていたことですよね。ますますアメリカン・ウィルダネスって日本っぽいです。

もう一つ、彼の思想を形作るものとして、彼の文明観がありました。当時(19世紀半ば)、目まぐるしく進歩する物質主義により、古き良きアメリカの文化が失われていくの目の当たりにし、原生自然は「生命の原料」という考えを提唱しました。彼は、人や文明は、原生自然に触れないとひ弱になり、活力がなくなっていくと主張しました。

今回はソロー の原著を読んだわけではないので、本書から、その理由は?というところまでは読み取れませんでしたが、体感的にはわかりますね。やっぱり野外での仕事の方が、頭も体もキレキレ感はあります。

そして面白いのが、ソロー は本物の自然にコテンパンにやられていうるということです。彼はマサチューセッツ州(ニューヨークのちょと北、ボストンがある州、当時もまあまあ都会)のウォーデンの森で2年2ヶ月自給自足の生活をして、原生自然の価値を説いたわけですが、その後、さらに北のメイン州(カナダの隣)カターディン山(アパラチアントレイルの終点)への遠征での原生自然体験をめちゃくちゃネガティブに表現していることです。

つまり、日本でいう里山にちょっと暮らして、「いやー自然で大切だよ」って言っている人が、気候、地形、隔離性とも、里山とはレベルの違う奥山に行ってみたら、「自然の中に二度といきたくない」って言っているようなものです。

これって、今の日本のアウトドの二極化の象徴みたいな話ですよね。産業は、里から下でとりあえず回っていますが、本当の自然の価値はその上にある。そこを産業化しないと、本物の自然を知らずに、もう二度と野外にいきたくない経験がいつかおとづれるのかもしれませんね。

ソロー は、後に自己の思想を構築したウォーデンの森(マサチューセッツ州)ではなく、惨敗体験をしたメイン州の広大な森を国が保存すべきと提唱しました。このことから、何が本当に大切なのかは、やはり本物を体験して初めて理解できるのかもしれません。

彼は最終的には、文明の発展と、原生自然の保全の両軸が必要で、人がその両方を行き来することの重要性を解きました。なんだ、私の生活ではないか。


第6章 原生自然を保存せよ

ソロー の時代、まだまだ開拓こそに合理性がありましたが、原生自然の保存を訴える声が、様々なところから上がってきました。この章では多くの先人たちの偉業が紹介されているので、一部のみ紹介します。

例えば、その一人として、ジョン・ジェームス・オーデュボンが挙げられます。この名前を聞いて、おって思う野外指導者は勉強している人です。ポカーンとしている環境教育者は、お勉強しましょう。オーデュボンの活動から、後に野鳥保護を目的とするオーデュボン協会が設立し、日本のキープ協会はそのオーデュボン協会から派生したものです。

彼はオハイオ渓谷の森林破壊を目の当たりにして、「西部開拓を非難するものではないが」と前置きしつつ、「一世紀もすればこの自然はなくなる」と原生自然の保存の必要性を訴えました。

アメリカ先住民の研究家で画家であったジョージ・キャトリンは、「イエローストーン号」に乗って、ミズーリ川源流(現在のイエローストーン国立公園)を探検しました。そこで先住民が、大量のバッファローを殺して、開拓者とウィスキーと交換しているいる光景を目の当たりにし、文明が、いつか先住民とバッファローを絶滅させてしまうと考え、国立公園の必要性を訴えました。

彼らの主張は、原生自然と文明との妥協点を探るものであったのに対して、ジョージ・マーシュは「人間と自然」のなかで、原生自然を残すことが経済的に正当性があると主張しました。彼は、干ばつ、洪水、侵食、気候変動などは森林伐採が原因であると述べ、原生自然を保存することは、文明に実用的な価値をもたらすと主張しました。

このような社会的機運の中で、1832年に、アーカンソー州ホットスプリングの自然物が歴史上初の国の保護対象となりました。ただし、さらに、国立公園への大きな潮流となったのは、みなさんお馴染みのヨセミテ渓谷を、カリフォルニア州の州立公園にすることを、国が認めたことです。当時より、ヨセミテ渓谷の荘厳な景観は全米に知れわたっており、人々は、自分たちの大切にしている原生自然を保存地区にしようとする動きが一気に高まりました。


第7章 保存された原生自然

1872年、ユリシーズ・グラント大統領は、ワイオミング州北西部の200万エーカーの土地を国立公園とすることに署名しました。世界初の国立公園の誕生です。

私が、2002年に視察に行った時はとにかくその広大さに驚きました。1辺約100kmの正方形(関東平野?)に5カ所しか入るゲートがなくて、その中に点々と、間欠泉、渓谷、石灰棚などの景勝地が点在していました。イエローストーンには、これまで3回足を運び、ビジターセンター、レンジャープログラム、周辺の街でのガイドツアーなどもれなく経験し、ザッツ、アメリカン・ナショナルパークっている感じでした。

ただ当時は、原生自然の価値が認められたというよりも、物質的に経済利益がない土地という消極的な理由の方が、政治的には必要だったようでした。また、エリアそのものというよりも、その中に点在する珍しい景勝地の集合体としての認識が強かったようです。その結果、1880年代には、それらの景勝地を避けければいいんでしょっていうことで、イエローストーン国立公園を横断する鉄道計画も浮上したそうでした。

イエローストーン国立公園の誕生は、国内の保存主義者に大きな希望を与えました。ニューヨーク州北部には、開拓から逃れた深く広大な森が残っていました。アディロンダック山地と言います。このエリアには、イエローストーン国立公園のような景勝地はありませんでしたが、当時、ニューヨーク州の飲水と水運の要であったエリー運河とハドソン川の水位が低下していることから、この森林を守ろうとする市民運動が一気に高まりました。その結果は、1885年に、世界初のアディロンダック国立保存林が誕生しました。

これらの先行事例により、アメリカの世界に誇る国立公園、国立保存林が次々と誕生していきました。


第8章 原生自然の伝道師ジョン・ミューア

さあ、いよいよ自然保護の父ジョン・ミューアでございます。シェラカップでお馴染みのシエラ・クラブの創設者であり、ヨセミテにあるジョン・ミューアトレイルでもお馴染みですよね。

ここも面白い。過去の超越主義者であるソローやエマソン(ラルフ・エマソン:インテリ系超越主義者)に比べ、めちゃくちゃ実践主義者であってこともわかりました。例えば、当時住んでいたインディアナ(中東部)から、メキシコ湾までの1600km歩いちゃったりとか、サンフランシスコからシエラ山まで歩いたりとか、失敗に終わりましたがアマゾン源流を目指したりとか。

ミューアは、エマソンを師ととらえ、エマソンも、ヨセミテで会ったミューアを気に入り、自分の住むマサチューセッツに移住するように進めたのですが、その誘い文句が面白い。「原生自然は愛人としては素晴らしいが、妻としては耐え難い」。なんか街の人ーって感じですね。東京にもいっぱいいそう。もちろん、実践者のミューアは丁重にお断りしたそうですが。

これが、同じ超越主義者でも、アメリカ人にとって、本物の原生自然(カタディーン山)に尻込みし、半原生を理想化したソローや、実践の伴わないエマソンに比べ、ミューアが愛される理由なのでしょうか。

ミューアの壮年期の活動は、今なおアメリカを分断する「保存(Prservation)」と「保全(consevation)」の思想との戦いだったようです。保全を代表するのが、全米森林管理委員会のギフォード・ピンショー(この人キーマンですよ)で、賢明な利用と、計画的な開発を自然保護とする考えです。一方ミューアの保存とは手を付けずに原生自然のまま残そうという考え方。当然、企業や政治は、前者を推進しますよね。

めちゃくちゃ興味深いのが、ミューアとピンショーは、森林管理委員会の視察で、二人きりで森の中でキャンプファイヤーを囲み語らう時間を重ねていたということです。えーっこの二人にそんな接点があったなんて。お互い、自然愛は共通するところでしたので、一時は友好を深めたそうです。

ただ、そのアプローチに決定的な思想の違いがあるので、とある州の森林管理委員会の視察でバトって永遠におさらばとなったそうです。歴史ってほんと人によって作られるんですね。

ミューアの功績として、保全派によって作られたヨセミテ法に対して、いくら法があっても功利主義から生まれた法が安全ではないとの考えから、シエラ・クラブを設立し、シエラネバダ山脈、カスケード山脈などアメリカ太平洋岸の山地の保存活動を行いました。シエラ・クラブは当時アメリカで増えてきた保存主義者の支援を得て急成長し、今日でも世界的な自然保護団体ですよね。

また、なんと、セオドア・ルーズベルト大統領と、ヨセミテでキャンプを行い、ハンティング好きな大統領に「いつになったら動物を殺すなどという子どもっぽいことをやめるのですか?」と言って、大統領も「その通り」ってなったそうです。このキャンプだけが理由ではないでしょうけれども、その後、カリフォルニア州立だったヨセミテを、国立公園に編入したり、同じくミューアが大切にしていたグランドキャニオンをナショナル・モニュメントに指定したそうです。

日本の総理大臣で山でキャンプして焚き火を囲んで民間の活動家の話を聞いてくれる人がこれまでいたでしょうかね。アメリカがすごいんだか、ルーズベルトがすごいんだか。この話どこまで本当なんだか。なんかこういうの小泉さんに期待できそうです。

こうして、ミューアの生涯は、アメリカの原生自然の保存に大きな足跡を残したのとともに、最後のバトル、ヘッチヘッチ渓谷のダム反対運動(第10章)に流れていくのでした。


第9章 原生自然への熱狂

第9章はミューアの時代の背景、ミューアが自然保護の父となった背景について書かれています。

それをよく表している例が冒頭に書かれていました。1913年8月、ボストン出身のジョン・ノールズは、多くの人が見守る中、メイン州の森の中で原始生活に挑むために裸で入っていきました。彼は、この原始生活実験を報告するために、カバの樹皮に木炭で書いた手紙を届け、当時のボストンの大きな話題となりました。

2ヶ月後の10月森から戻ってきた彼は、ボストン中のヒーローとなっていました。メイン州からボストンに帰るまでの途中の街でも熱狂的な歓迎を受け、彼の演説には数千から数万人の人が集まったそうです。

このエピソードは、当時のアメリカがそれだけ、原生自然や原始への憧れ・賛美があったことを裏付けています。

1890年代は、アメリカにとって特別な時代だったようです。この時にすでに開拓の時代を終え、アメリカ人の生活を支配していた原生自然にその力はなくっていました。逆に急速に発展した都市の問題がアメリカに大きな影を落とし始めたそうです。例えばスラムとか、ギャングとか。

これまでのアメリカ人の国民性をつくってきたものが開拓であり、開拓の最前線がアメリカの文化であり、開拓者がヒーローでした。その誇りを失いかけていた時、すでに支配力を失った原生自然の価値が再評価され、アメリカ人がアメリカ人であるためには、原生自然と接触していることの価値が見直された時代でした。

この時代に、今もある名だたる野外組織も立ち上がりました。上述した「シエラ・クラブ」や、「アパラチアマウンテン・クラブ」「アメリカン・キャンプライヤー・クラブ」など。1907年にイギリス人のバーデン・パウエルが始めた「ボーイスカウト」は、まさにアメリカ人が当時待ち望んでいたことであり、全米に爆発的に広がりました。

また文芸でも、動物記で有名なシートンや、エドガー・バローズのターザンもこの時期で、これらの作品のヒットは当時のアメリカ人の原生自然に対する憧れをよく表していました。

原生自然が気づいたら開拓され尽くしていたヨーロッパ人にとってのウィルダネスと、自分たちで開拓し、アイデンティティを形成してきたアメリカ人にとってのウィルダネスに大きな違い生まれ始めた時代背景ですね。なんか突然ライバルがいなくなった虚無感でしょうか?


第10章 ヘッチヘッチ渓谷

1908年から1913年まで、約5年間続いたこのダム建設の反対運動は、後の保存と保全の対立構造を明確にしただけでなく、ダム建設に反対することによって保存主義者の結束を強め、長く開拓こそ善と考えてきたアメリカ人の価値観を根本的に変えた大きな出来事でもありました。

ヨセミテ国立公園内に隣接し、原生自然保存地区にしてされているヘッチヘッチ渓谷は、かねてよりサンフランシスコの貯水ダムとして注目されていました。それが決定的になったのは、1906年のサンフランシスコでの大地震と大火事でした。1908年に国がサンフランシスコ市の要請に対し、ダム建設の許可を出したことがきっかけとなり、国中を巻き込む大論争と発展しました。

論争の初期に、かわいそうだったのが上述したルーズベルト大統領です。きっといい人だったんだろうなあというエピソード。当時森林局長となっていた保全のピンショーは、当然ダム建設推進派。ルーズベルトとは、「森林問題は全てピンショーに従う」と言わせるほどの信頼感。一方、ミューアとも、キャンプで語りあり、保存の価値と、保存主義者が政治的に大きな力をつけてきたことも理解しつつ、まさに、板挟み状態。

ルーズベルトは貯水池が他の場所にできないか色々調査させたりしたようでしたが、やはりヘッチヘッチ渓谷に勝るところはなく、ミューアに国が国立公園を守る最大限の努力をすると確約しつつ、苦渋の決断で、ダム建設に許可を与えたそうです。なんかいい人。

その後、上院、下院の公聴会にて保全派と保全派はたびたびはげしいバトルを繰り広げたそうです。

民間レベルでも、シエラ・クラブとアパラチアン・クラブが一致団結し、ヨセミテを守るための大キャンペーンを行い世論を動かした結果、一時下院でダム建設が白紙になることも。

ここで面白い人が出てきて、カリフォルニア州会員議員のウィリアム・ケントという方なのですが、熱狂的なミューア信者で知られていました。彼は、あえてセコイア原生林を購入し、それを国に保存区として欲しいと寄贈、ルーズベルトがこれを受け、「ミューア森林ナショナル・モニュメント」と命名したそうです。

これは、ミューアは超感動ですよね。もちろん、ケントが保存派であることに疑う余地はありませんでした。

ところが、ヘッチヘッチ渓谷問題で、電力会社の大企業が渓谷を管理したがっていることを知ると、あっさり保全派に転向し、ダム建設を推進しました。

ミューアのあらぁて顔が目に浮かびます。

その結果、1913年9 月3日、とうとうヘッチヘッチ法案は下院を可決しました。

ただ、その後も保存派は諦めず、「国立公園保存協会」「ヨセミテ国立公園全国保存委員会」は、地方議員や、世論工作などを行ったり、主要新聞社で保存派の意見を掲載したりと、死に物狂いの死闘が続きました。

1913年12月6日、上院議会の議場に入ると、各議員の席の上に、ダム湖にボートを浮かべて、幸せそうにしている家族の写真が掲載されたサンフランシスコの雑誌が置かれており(えげつな)、それに比べると保存派のビラはいかにも見劣りするものだったそうです。これが影響したかどうかはわかりませんが、上院可決。そして、1913年12月19日には、ルーズベルトから変わったウィルソン大統領が法案にサインし、ヘッチヘッチダム紛争は幕を閉じました。

保存派は、戦いには敗れましたが、これまでの一部の自然保護者の論争から、全米国民の自然保護の意識を目覚めさせました。また、各地で活動していた保存派団体も、一致団結し、巨大な政治力を持つようになりました。

ウィルソン大統領は、ダム建設にゴーサインを出したものの、その後、1916年に国立公園局法を制定し、今日のアメリカの国立公園システムの石杖を築き、国民の原生自然の保存の意識を一層高めました。

パート2を読んで

ヘッチヘッチダムを読んで、改めて、日本自然保護協会の前身となった、尾瀬保存期制同盟(1948)を思い出しました。こちはら尾瀬ヶ原をダム建設から守り抜いたわけですが、環境保護意識を高めるために、いずれも破壊が必要となるなんて皮肉ですよね。

アメリカにしろ、日本にしろ、自然はあって当たり前なので、日常の生活ではなかなかその価値に気づくことができません。私たちがそれがなくなった未来を想像できれば、破壊がトリガーとならなくても済むんですけどね。

アメリカでは歴史的必然から、原生自然に対する熱狂があり、原生自然の保存が国民のアイデンティティにもなっていくのですが、日本は「熱狂」の時代というのが見当たりませんね。緩やかな登山ブームや、アウトドアブームは経験しましたが、国民を巻き込むまではいきませんでしたし、思想というより活動ですよね。江戸の講中登山?こちらの方がよっぽど思想っぽい。日本人のウィルダネスを探るためには、やはり山岳宗教をもう少し攻める必要がありますかね。

パート3はいよいよアメリカの今日的なウィルダネス。日本との接点が探れるか楽しみです。

参考

原生自然とアメリカ人の精神(ミネルヴァ書房)
https://www.minervashobo.co.jp/book/b209187.html

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