原生自然とアメリカ人の精神(パート3)

この章では、「土地倫理」のレオポルドから、近現代の原生自然思想までです。

1930-1970年は野外にとっても激アツな時代でしたので、野外の歴史に思いを馳せながら、お隣環境教育での出来事を興味深く読むことができました。


目次

第11章 予言者アルド・レオポルド
第12章 永続のための決断
第13章 原生自然の哲学を目指して


第11章 予言者アルド・レオポルド

「土地倫理(Land Ethic)」 でお馴染みのレオポルドでございます。関係ありませんが、この時期からカラー写真になったのですね。

さてさて、これまでの保存主義者の主張は、超越主義による神秘性や美的価値や、開発に対するアンチテーゼとして原生自然の価値を説明してきたのですが、レオポルドの土地倫理は科学的視点により、原生自然の価値を説明したとして、保存主義に新たな展開をもたらしました。

レオポルドは、当時のアメリカの森林研究の中心で、連邦森林局の人材のほとんどを輩出していたイエール大学の森林学院を1909年に修了しました。この大学院は、なんとピンショーの寄付で設立されたもので、レオポルドもピンショーのような森林管理の仕事を志しました。

ミューアとの対立構造だと、どうしてもピンショーがヒールになってしまいますが、とても良いことしてるんですね。保存vs保全は、ある意味善vs善の戦いみたいだったのでしょうね。

その後、レオポルドは、ニューメキシコで森林管理の仕事につき、若いうちからハンティングの愛好者を巻き込み「狩猟鳥獣保護協会」を立ち上げるなど、精力的に原生自然の保護に動きました。ハンティングを楽しむためには、原生自然の保存と、捕獲数の適正な統制が必要という論法です。

また、当時の保存地区が、湖の周りとか、川の周りといった限られて地形周辺が多かったことに対して、レオポルドは生態学的な観点から、「自然のままに保たれ、合法的な狩猟が行われ、2週間のバックパッキングができる広さがあり、道路、登山道、山小屋などの工作物がないままに保たれている広大な土地」と定義しました。また、機動力のある移動手段を否定はしないまでも、原始的な活動をしたい人にも考慮すべきといった概念も提唱しました。この定義は、今日の原始自然地区やその定義にも大いに影響を与えることとなりました。

レオポルドは、1924年にウィスコンシン州大学の教員になることをきっかけに、最初の職場であり、原生のまま残されている南西部の森林(いわゆるグランドサークルあたり)をそのまま保護することはできないか思索を重ねることとなりました。

同年設立した野外レクリエーション国民会議は、その後の原生自然の保存政策に大きな影響を与えることとなりました。この会議でまずレオポルドがとったロジックは、レクリエーションの資源としての原生自然でした。この方針が、国のレクリエーション政策とはまり、国民会議は大きな推進力を得ることなりました。

時は、やや前後しますが、1912年には、地域計画のパイオニアとされるベントン・マッケイが、メイン州からジョージア州までの3500kmのアパラチアントレイルを開通させ、長大なエリアをゾーニングとして保存することに成功しました。これも、レクリエーションを原生自然の保存理由としたロールモデルですよね。

レオポルドの思想はここで終わることなく、更なる原生自然の価値を探究することなります。それに大きな影響を与えた一つが、ダーウィンの進化論です。人間と動物の間にきっちりと線をひき、人間を最上位とするキリスト教の世界観の中で、人間も動物も同じネズミから進化したものとする考えは衝撃を与えましたが、レオポルドに「人間が生命共同体の主役ではなく、生命共同体の一部である」という考えを裏付けるには十分な発見でした。

また自然学習のL.H.ベイリー(ここで出てきたか)が主張する自然との直接体験の価値や、生態系にも権利を与える「土地の正義(Earth Righteousness)」は、レオポルドの土地倫理に大きな影響を与えました。

ちなみに、「野外教育の父」でお馴染みのL.B.シャープは、体験学習のデューイ、自然学習のベイリー二人の影響を受け、野外教育の概念を体系化しました。野外にいったシャープと、環境にいったレオポルド。写真の雰囲気もちょっと似てたりしますね。

レオポルドは、1915年に設立したアメリカ生態学会の会長にもなっています。学会には「自然状態保存委員会」が設置され、原生自然の維持は、レクリエーションのためだけではなく、種を保存するといった生態学研究にとっても欠くことができないと、新たな論点の武器も得ます。

これらの理論を統合し、レオポルドは「土地倫理」を提唱します。倫理学は、人間社会の関係性に焦点を当てるものでしたが、それを、「土壌、水、植物、動物、これらを総称した「土地」との関係性にまで拡大した倫理学」としました。主な考えとしては、「人間は共同体の支配者から、一構成員となり、他の構成員にも敬意を払わなくてはならない」というものです。

はい、皆さんお気づきの通り、野外倫理のグルーバルスタンダーであるLNTは、まさに彼の土地倫理から発展したものです。

こうして、レオポルドの土地倫理は、保存主義者を正当化する強力な根拠となり、今日までも、数多の環境倫理の中でも、現実的、かつ実践的として採用され続ける思想となったのです。


第12章 永続のための決断

ヘッチヘッチダムの敗北、ミューアの死によって、レオポルドらを含む原生自然保存の新たなリーダーたちは、強く結集し、1935年「原生自然協会(The Wilderness Society)」を設立しました。

ヘッチヘッチダムから約40年、また新たなダム建設が国中を巻き込む大論争となりました。コロラド州とユタ州の間いにあるダイナソー国立記念物でのエコーパークダム建設計画です。このエリアは1915年に恐竜の化石が多数発掘されることで、国立記念物に指定されました。

5年間にわたる論戦ののち、ダム計画は保存派(反対派)の勝利に終わりました。これはヘッチヘッチからの開発の既定路線を大きく変えることの現れでもありました。さらに、ダム建設が予定されていたコロラド川貯水計画法のなかに「この法律で許可されるダムや貯水池は、国立公園や記念物の中にあってはならない」と定められ、原生自然の保存運動は、大きな法的裏付けを得ることにもなりました。

エコーパークダムの勝利によって、法律で原生自然を保存することに、保存主義者の運動は大きく動きました。当時の国立公園法や、国立記念物を規定する法律は、道路や宿泊施設を建設できる余地を残していました。これに対して、現存する原生自然を変えることなく保存するという、世界で初めての「原生自然法(Wilderness Act)」が、1964年に制定されました。

この法律は、当時計画されていたグランドキャニオンにダムを作る計画にも大きな転期を与えました。当時国が反対運動をするシエラ・クラブに、寄付金に対する非課税措置の撤廃を警告したことが、あたかも口封じのように国民に映り、保存運動は全国的にさらに激化し、1968年に「ダムのない中央アリゾナ計画法」が可決し、ダム計画は中止となりました。

この一連の出来事は、もはや保存運動は、政治的イデオロギーとして無視できなところまで強大になっていたことを国内に示しました。グランドキャニオンダムは、連邦政府及び、コロラド川流域の7つの州政府、水やエネルギー管理団体の賛同を得て、ダム建設が予定調和であったにも関わらず、保存主義者がこれをひっくり返したのです。

1975年に、グランドキャニオン国立公園は現在のエリアに拡大され、1981年には、世界遺産に登録され、人類の遺産として残されることになりました。

コロラド川には、保全のシンボルとして、世界最大級のフーバーダムとグレンキャニオンダムという2つの巨大なダムがあります。一方で、保存のシンボルとして、ダム建設を免れたダイナソー国立記念物とグランドキャニオン国立公園。この2つの正義が相対するように、保全と保存は、この時から一時膠着状態のままになっています。


第13章 原生自然の哲学を目指して

レオポルドまでの原生自然に権利を与える思想は、保存主義者を束ねるのには一定の役割を果たしましたが、政治や法律の戦いの場ではやはり、力不足が否めませんでした。保存主義者は以下のような現実主義的な主張に対し、文明を肯定しながら、原生自然の価値を説明する原生自然の再定義の必要性が出てきました。

記者のロバート・ワーニックは、原生自然愛好者を、原生自然の価値のみを主張して、それを開発しないことによる人の不利益についは論じていないと批判しました。結局は、天然資源を利用し、文明がないと生きていけないと揶揄しました。

太平洋沿岸の森林会社の有力者であるウィリアム・ハントは、原生自然保存主義者を、環境を荒廃させ、経済的価値のない原生自然に戻そうとする古代のカルト集団と罵りました。

微生物学者のルネ・デュボスは、北フランスを引き合いに出し、2000年間人が住んだことにより、石器時代に遭遇した原始林よりも、格段に美しく、生態的にもバランスの取れた土地と風景が存在すると、保存を批判しました。

デュボスはまた、生態学的に健康で、美的に満足がいき、経済的価値を生み出し、文明の継続的価値にとって望ましい環境は人が作り出してきたもので、原始自然に戻りたがる人は現実的にはほとんどいないと主張しました。

シエラ・クラブの会員だった弁護士のエリック・ジャルバーは、乗り物によって老若男女がアルプスに手軽にアクセスできるスイス旅行を経験し、アメリカの原生自然保存制度が、99%の人を自然から遠ざけていると、態度を180度転換しました。ヨセミテのハーフドームの上にレストランを作ったり、グランドキャニオンの谷底までロープウェイを作ったら、もっと多くの人が大自然を楽しむことができると考えました。

確かに、これら全部言っていることは確かですよね。里山も人がいるから、都会の人が行って、気持ちが良い、安らぐと思えるわけで、人がいなかったら、雑草と薮だらけですものね。花山キャンプ場も、サマーキャンプを終える夏の終わりぐらいに、一夏手入れをしたので、気持ちがいいなって思えます。キャンプ場開きなんて、雑草とカメムシとの格闘。カメムシ1000匹はあまり気持ちよくないです。

日本の山岳観光って、ヨーロッパをモデルにしているので、一部のエリアは手軽に2000m以上まで行けますよね。具体的な環境評価のデータは持ち合わせいませんが、10代から通い始めた北アルプスは、あれから30年たっても山の上はあまり変わっていないように感じます(雷鳥が減ってきたとかあるかもしれませんが、観光の問題なのか温暖化の問題なのか検証が必要でしょう。)

これらの批判に対して、ミューアに代表される完全保存主義から、かつてのソロー、エマソンらが主張する両面価値性(アンビヴァランス)が俄かに注目を浴びました。

環境計画家のベントンマッケイは、人間の群生性と単生性から文明と原生自然の融合を図りました。人はブロードウェイのミュージカルも楽しむし、自然の中で一人の静かな時間も同じように楽しむ。いずれも人間性にとって必要なのだと。

同じように、探検家であるシガード・オルソンは、森の中で一人でキャンプをしているときに、遠くから聞こえる列車の汽笛に心地よさを感じ、普段文明の中で生活しているからこそ、原始自然の中にいることの意義を感じられると言いました。

冒険家のジョンミルトンは、アラスカのブルック山脈を6週間かけて北極海まで旅をして、その経験は常に良いことばかりではないと言いました(そりゃそうだ)。人は一定期間文明の中にいると精神的不足を感じ、同じく原生自然の中にずっといてもそれは感じると。そして、両方の世界を交互に暮らすことの幸福感について語りました。

詩人のゲイリー・スナイダーは、相反する概念の連続性の中で、自分に最適な状態が生じると考えました。科学と精神、技術と自然、先住民と白人、文明と原生自然の共存こそが、その最適な状態を得るためには必要であると。

また、1960年代は、高度成長によるさまざまな社会問題が起こりました。それらに対する対抗文化(カウンター・カルチャー)として、人々が環境運動に目を向ける時代でもありました。彼らのイデオロギーは、反現代社会ですので、保存でも保全でもなく、環境主義者と呼ばれました。イデオロギーは違えど、彼らの脱現代社会の思想は、原生自然の賛美に大いに貢献しました。

最近の若者、働き盛り方々の登山思考にもちょっとこれがあるかもしれませんね。かつてのリタイヤ組ではなく、会社でバリバリ働いている人が、山でメンタルを中和して、またコンクリートジャングルに帰って行くなんて方に山でよく会います。

また、1971年の「国連人間・生物圏計画」で示された「生物圏保存地域」の制定も、1970年代の原生自然の保存に大きな推進力となりました。

この計画はまだ生きていてい、現在では世界110カ国630地域が指定されているそうです(参考:EOCネット)。日本では屋久島、大峯、大台、白山、志賀高原、南アなど。全部行ったことあるけど、気づかなかったな。

生物圏保存はすなわち生物多様性の価値にも直結しました。「沈みゆく箱舟」の作家であるノーマン・イヤーズは、医学、農学で不要と思われていた種が、生態系に大きな貢献をしていることを説明しました。

同時に生物学者は、地球上の約1000万種のうち5分の1がこの100年で絶滅ると推測し、生物多様性のゆりかごである原生自然の重要性を示しました。

一方、この時期になるといくつかの実証実験も、原生自然の価値を報告するようになりました。

精神病患者が、原始自然体験を通じ、改善されることが報告され、ウィルダネス・セラピーをいう言葉が、注目されるようになりました。心理学者は、あまりにも複雑化しすぎた現代社会の生活を、原生自然体験は簡素化し、スピードを落とし、「孤独が優れた医者」であると言いました。

また、我らがアウトワードバウンドでも、犯罪者や非行少年の公正に効果をあげました。当時の会長は、お馴染みの3日間原生自然の中で過ごすソロ活動は、サバイバル体験よりもむしろ、自己の考察と黙想の体験であると言いました。

以上、原生自然の再定義でしたが、はぁ読むの疲れました。

近現代において、原生自然はそれのみの価値ではなく、文明にとって必要不可欠なものであるという思想に変わってきました。「脱現代社会」「生物多様性」「精神衛生」「自己実現」など、新たな価値が見出されてきたわけですね。


パート3を読んで

野外にしろ、環境にしろ、この時期一気にアメリカが、文化、学術で世界のトップになったのは、やはり二度の世界大戦で戦場にならなかったことが大きいのでしょうね。

1910年代のベイリーの自然学習運動が、シャープにもレオポルドにも影響を与えていたことは驚きでもあり、必然だったのでしょう。

レオポルドが、原生自然の保護に奮闘する横で、1930年ごろは「野外教育」という学問が体系化されていった時でした。1943年にシャープにより「野外教育(Outdoor Education)」という概念が確立されましたが、この時はまだ原生自然とは無縁の都市型のキャンプ場が中心でした。

1950年代は、ジュリアン・スミスらの活躍によって大学教育において野外教育が市民権を得た時代であり、後の環境教育の受け皿となる力を蓄えました。

1960年代は、全米で環境保護が叫ばれた時代であり、この時期の野外におけるシーズとしては、公園行政の中で「ミニマムインパク」が叫ばれたことです。これが野外教育のフィルターを通し、後のLNTへの発展しました。

また、1961年にイギリスから伝わったアウトワードバウンドは、野外教育と原生自然を結びつける格好の教育手法となりました。また、これにより、野外教育がLNTの開発者、実践者としての妥当性を得たわけです。

さらに、1970年代の環境教育の隆盛の受け皿として、伝統的な組織キャンプは、最良の実践の場となりました。PLT、PWなどの数々の優れたパッケージドプログラムが開発されたのも、組織キャンプがベースとなっています。

こう考えると、ちょっとタイミングをハズすと、歴史って全く別物になってしまっていたし、今の私が仕事としたいなって思える野外教育ではなくなっていたのかもしれませんよね。

歴史を見て、未来を想像するとよく言いますが、このドラマチックな歴史からは、なかなか遠い未来を予想するのは難しいですね。今はとりあえず、日本がこの歴史に一歩でも近づけるように歩くしかないようです。


参考

原生自然とアメリカ人の精神(ミネルヴァ書房)
https://www.minervashobo.co.jp/book/b209187.html

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