野外教育って何?(パート1)

今更なんて、声も聞こえてきそうですが、ここ最近あれ?って思うようなことが多かったので、改めて野外教育について考えたいと思います。

この話題となると、おそらく100ページぐらいの論文が書けるので、とりあえず、パート1として、最近思ったあれ?を解説します。


目次

LNTは野外教育の目的?
自然体験活動による環境教育への偏重
環境教育には冒険教育が必要
野外教育再定義
LNTと野外救急法は野外教育の両輪


LNTは野外教育の目的?

我が国におけるLNTの普及は、2013年のWEAJの立ち上げに始まります。一つは、「環境倫理」がWEAカリキュラムに含まれているため、WEAコースで学習しなければならないことが大きな理由です。

環境倫理=LNTではないのですが、アウトドアユーザーのグローバルスタンダードであることや、その他の環境倫理の学習よりも、LNTがカリキュラムとしての完成度が高いことから、LNTを採用しました。

その結果、WEAの指導者にならなくてもいいから、LNTは学びたいという方が多く、WEAの有資格者よりもはるかに多くの方がLNTのコースに参加していただきました。

また、 フットウェアメーカーのKEENが、北米のLNTの最大のスポンサーであることから、KEEN JAPANの後押しも受け、指導者が増えていきました。

その結果、今日のLNTJの設立につながったわけですが、ここにきてあれあれ?変なことになってきたなと思うことがありました。

それは、「野外の指導者になってLNTを伝えたい」、「野外教育はLNTを教える教育」と言った考えをお持ちの指導者の方に出会う機会が、LNTの普及とともに増えてきました。これはこれでLNTを大切にしていただいている証でありがたいことなのですが、この思考の中では、LNTが野外教育の教材であり目的となってしまっています。

私の(少なくともWEAメンバー全員)考えは、LNTは野外教育を行う上での前提条件で、それがゴールではありません。もちろん、私の運営する企業の野外研修や、夏の花山キャンプでは、LNTを学習します。それは特定の教育目標を達成するために、野外状況下で活動を行うための、最低限のたしなみだからです。


自然体験活動による環境教育への偏重

この言葉、2000年以降の野外教育の変化に最も影響を与えた言葉であり、要因でもあると考えています。「自然体験活動」について話出すと、また長くなって、今回の筋とはちょっと外れるので、また改めてブログ書きますね。

1996年の「青少年の野外教育の充実について」以降、民間活力を導入し、野外指導者の育成や、子供のキャンプが全国で行われました。当時この政策をど真ん中で進めていた佐藤初雄さんは、これにより、環境系の野外指導が、野外教育に入ってきたと教えてくれました(飯田稔:キャンプと共に歩んだ50年,幼少年キャンプ研究会出版)。

今では、えっと思うかもしれませんが、1990年前半は、文献上、彼らは野外活動や野外教育に対して、かなりバッシングをしていました(引用が知りたい方はご連絡ください)。その理由は、活動が環境にダメージを与えることや、教育目標から環境リテラシーが欠落していることです。私は、環境系の方とも仲良し(勝手に思っているだけ?)でしたし、当時の野外教育に対して同様の評価をしていたので、ごもっとも、バウバウと思っていました。

いずれにせよ、アメリカから30年遅れて、野外教育に環境系の方が入ってきてくださったのはとても良いことだと思います。

「自然体験活動」という言葉が、正式に出てきたのが、同報告における「野外教育」の定義です。同書によると、「野外教育とは、自然の中で、組織的、計画的に、一定の教育目標を持って行われる自然体験活動の総称」とあります。この時は、「自然体験活動」は、当時主流の専門用語であった、「野外活動」のことねって、あまり違和感は感じませんでした。学校教育辞典(教育出版)にも「自然体験活動」=「野外活動」であると明記されています(私が執筆者なので主張が同じで当たり前ですが)。

同報告を受けた一連の政策の中で、1999年「子ども長期自然体験村」が開始され、いよいよ「自然体験」が表舞台に出てきました。実は子ども長期自然体験村の評価研究もやっていて(レジャーレクリーション研究44号,pp.1-10)、その結果、奇しくも「達成動機」や「友人関係」に効果はなく、「自然認識」のみに効果があったというものでした。この内容からも事業内容や指導者の意識が、環境系にシフトしていたことが伺えます(その研究がおかしいという方はどうぞご自由に)。

その後、環境系と一緒になったり、「教育」とう言葉を使うと文科省なので、省庁横断の政策として進める上でも必要になった言葉が、「自然体験活動」です。そして2000年「自然体験活動推進協議会CONE」の設立。「自然体験活動指導者制度」の開始。当時、公の場で「野外教育は終わった」なんて専門家もいたので呆れ果てた思い出があります。

なんで「野外活動」を使わなかったのかということですが、1961年にその後環境教育者からバッシングを受ける原因となった出来事があったのですが、それは、「スポーツ振興法」に、青少年に「野外活動」を推進すべし、と明文化されたことです。これ自体は、野外活動の政策を進める上での法的な裏付けになるのですが、これにより、本来であれば、環境的、芸術的活動も含んでいる野外活動が、体育の領域として進めらることになったのです。

確かに、環境系の方々と一緒にやるために、「野外活動」をいう言葉を使えないのもわかりますよね。

もう一つ、野外とは全く違う文脈ですが、学校教育では「自然体験活動」という言葉がこのように使われています。

学校教育法第21条(教育目標)の第2項では、「学校内外における自然体験活動を促進し,生命及び自然を尊重する精神並びに環境の保全に寄与する態度を養うこと。」とあります。この条文ができたのは、野外で自然体験活動が使われるずっと前で、単に一般名詞として使われただけなのですが、学校現場では、「自然体験活動」は、環境リテラシーを養うことですねってなって当然です。

こうして、「野外教育」が「自然体験活動」という用語で表現されるようになり、「野外教育」は「環境リテラシー」を養う教育という偏った認知が生まれてしまいました。よって、LNTを学ぶ教育と誤解されるのもわかる気がします。


環境教育には冒険教育が必要

環境教育は、ちょっと前は、環境に対して責任ある行動、最近は持続可能な行動を取れることがゴールです。そのためには、環境に対する関心、知識、態度、技能などが必要なわけですが、こういったスキルを総称して、「環境リテラシー」と言います。つまり環境教育とは、「環境リテラシー」の獲得を目標とする教育活動の総称です。

「行動」を起こすためにとても大切な能力として「態度」があります。確かに「やろう」と思わなければ、人間は動くはずがありません。ところが「やろう」と思っても人はそう簡単には動かないことがあります。例えば、私だったら「お酒の飲み過ぎは良くない、だから減らそう(認知)」と分かっていても、「でも疲れたから飲んじゃおう(感情)」が勝って、ついつい飲んじゃます。つまり、「今日は止める」という行動が起きないわけです。要するに、行動を起こすには、認知的態度と感情的態度の一貫性が必要です。

この理論を採用して、キャンプが参加者の環境に対する態度に効果があるのか?って研究したのが私のドク論です(キャンプにおける環境教育・冒険教育プログラムが小中学生の自然に対する態度に及ぼす効果, 筑波大学)。

その結果、野外教育の環境教育的要素(環境リテラシーを獲得するための活動)は、環境に対する認知的態度に向上により高い効果があり、冒険教育的要素(野外活動によるストレス体験を手段とした活動)が環境に対する感情的態度の向上に効果があることわかりました。もともと野外教育には、いずれの要素も含まれているのですが、包括的な環境に対する態度を育成するためには、環境教育と冒険教育が必要ということです。

また、現在Journal of Outdoor Recreation,Education, and Leadershipに投稿中ですが(リジェクトされたらどうしよう)、過去にウィルダネストリップを経験したことのあるキャンパーの方が、経験のないキャンパーよりも、LNTプログラム後の自然に対する態度が向上し、さらに遠征中にも、LNT行動が高いことがわかりました。つまり、冒険的要素を含むウィルダネストリップが、LNTの理解とそれによる態度向上や、実際のトリップ場面でのLNT行動を促進させることがわかりました。

LNTの理解による態度の向上は認知的態度を測定したものですが、2つの研究を簡単にまとめますと、本物の自然に触れて、そこで生活するようなウィルダネストリップは、自然に対する認知面と感情面の育成に大切だし、特に環境学習では補完しにくい感情面の醸成にはとても大切ですよということです。

ちょっと余談になりますが、今後、通信技術の劇的な発展で、環境学習は自然の中に行かなくとも、バーチャルで五感を通じて体験できる時代がもうそこまできています。また、仮に自然の中に行ったとしても、知識を伝えるだけの自然解説は、野外指導者よりもAIの方が優れているでしょう。

その時代が来たときに、自然体験活動が、環境リテラシーの獲得のみを目的とするものであれば、不要になってしまいますね。


野外教育再定義

改めまして、ここでもう一度サイモンの野外教育の木の紹介です。私のドク論における野外教育の定義の裏付けとなったモデルです(Priest, S. (1986). Redefining Outdoor Education: A matter of Many Relationships. The Journal of Environmental Education , 17(3): 13-1)。

このモデルの解説は 20年ぶりぐらいかもしれません。まず、冒険教育と環境教育という二つの大きな枝がある野外教育の木をイメージしてください。

野外教育は、聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚と言った五感+直感と、認知、感情、行動という脳の学習野への刺激を養分として、冒険教育と環境教育の二つの枝を通じて葉(効果)を茂らせます。

野外教育の木は、体験学習過程を経て、自己との関係、他者との関係、生態系間の様々な関係、人と環境との関係の4つの関係を実らせます。冒険教育は主として、自己・他者の関係に、環境教育は主として、生態系・人間中心の関係に養分を共有しますが、樹幹で枝は複雑に絡み合い、どちらも実らすことができます。

また、野外教育の木は、教育学、心理学、科学、工学、理学、芸術などの様々な学問と、酸素と二酸化炭素のガス交換を行い、より立派な木に成長します。って感じですがいかがでしょうか?メタファーのイメージつきましたか?


LNTと野外救急法は野外教育の両輪

話をLNTに戻しますが、LNTは人間の利用を前提とした環境スキルですので、人間中心の関係に含まれます。これを学習目標とすること自体は何ら問題はないのですが、もっと広い包括的な学習目標のほんの一部だと考えてください。

LNTのもっと重要な役割は、自然の中で野外教育を行うために、環境へのダメージを最小限にすることにあります。もしこのダメージが再生不可能なものとなると、野外教育自体が持続不可能な教育になってしまいます。

これは、今回触れませんでしたが、野外救急法(WFA/WFR)も同様で、どんなに事故を起こさないための予防的なリスクマネジメントをしても、緊急時の合理的なプロトコルがなければ、リスクマネジメントプランとして成立しません。

つまり、LNTと野外救急法は、野外教育を行う上での、車の両輪といったイメージを持ってください。片方が脱輪したら、野外教育号は走ることができません。仮に無理やり走らせてしまったら、人にも環境にも社会にもめちゃくちゃ危険な車になっちゃいますよね。

野外教育の目的が何であれ、教材がなんであれ、自然環境がどこであれ、全ての野外教育の前提となるのがLNTと野外救急法です。


まとめ

野外教育には様々な分野が含まれるため、それぞれの専門分野はあって然るべきです。私は、野外教育者です。専門性が高いのは野外遠征を手段とした4つの関係の獲得です。時々、ASEを使って、自己・他者のとの関係に焦点を当てたプログラムも提供しています。LNT指導者、野外救急指導者というアイデンティティはあまりありません。

今まで、野外教育を断片的に体験したり、包括的にイメージできなかった方にとって、野外教育の再概念化のお役に立てたら幸いです。もし自分に欠けていたピースがあったら埋めていっていただければと思います。

その上で、私はLNTの指導者になる。私は野外でのリーダシップトレーニングの専門家だといったように、スタンダードの上に、とんがったスペシャリティを磨いていっていただければと思います。


ご興味のある方はぜひ無料のメルマガにご登録ください

野外教育の概念について詳しく知りたい方は、アウトドアリーダー・デジタルハンドブックを参考にしてください。

本格的に野外指導を勉強し、指導者を目指したい方は、Wilderness Education Association Japanのサイトをご覧ください。

backcountry classroom Incが提供するオンラインサロン「Be Outdoor Professional」では、みなさんの野外の実践、指導者養成、研究に関するお悩みを解決します。また、日本全国の野外指導者と情報を共有し、プロフェッショナルなネットワークづくりをお手伝いします。1ヶ月間お試し無料ですので、ぜひサイトを訪ねて見てください。